日本SOD研究会報

アレルギー、花粉症、虚弱体質から健康優良高齢者に
支えはSODとルイボスエキス濃縮粉末

福島県にお住まいのM・Hさん

息子さんの小児白血病、医師だったご主人の逝去東日本大震災、コロナ禍、激動のシンフォニー

3年にも渡って世界中を恐怖と混乱の中に巻き込んだコロナ禍が5類感染症となり、ようやく従来の日常を取り戻した2023年。
今回の愛飲者インタビューは、そんな締めくくりから新年にふさわしい、素敵な女性に登場していただきました。
福島県にお住いのM・Hさんです。
とにかくお美しい。美人というだけでなく、姿勢やたたずまいも上品でお美しい。
病院を経営され、ご主人もお医者様と伺えば、納得でした。さぞや恵まれた人生を送られていらしたのだと推察しながらのインタビューでした。
案内された場所は、元クリニックのビル2階、奥様が週に4日、昼間だけオープンしているというカフェでした。
入ってすぐの壁際の棚にはSODやルイボスエキス濃縮粉末(以下、ルイボスエキス)、さらにSOD研究会の会報までさりげなくきれいに飾られていて、嬉しくなりました。
大きな窓からはうららかな午後の日差しが燦燦と降り注ぎ、センスのいいシンプルなカウンターに、余裕を持たせた椅子たち。こんなところで本でもゆっくり読みたいなと思わせる落ち着いた空間でした。

「ほっとしますね」と言うと、「それだけが取り柄。映えも萌えもないんです」と今時の笑いでさらりと返されるM・Hさん。
これだけで、今日のお話は間違いなくいい時間になると確信しました。

店内

教員免許と准看護師免許まで取得の才女

生まれも育ちも福島というM・Hさん。自然豊かなこの地で、野山を駆けまわって元気に過ごしていたのかと思われがちですが、子供の頃から虚弱体質だったといいます。
「アレルギー体質で、よく蕁麻疹が出ていました。それと小学生の時には小児結核の一種、肺浸潤という病気にもかかったことがあり、病院には頻繁にお世話になっていた記憶があります」
治療のために薬を飲むと、すぐじんましんが出ていたそうで、当時から漠然と薬は自分には合わないと感じていたそうです。

大人になっても貧血に悩まされるなど、決して健康ではありませんでした。
大学も家から通える地元の学校に進学し、教員免許を取りました。
「何か目的があったわけではなく、普通の道を進んだだけでした。ところがその後出会った方々のおかげで様々な経験や勉強をさせていただいたようなものです」
謙虚にお話しされますが、その後の出会いや周囲の期待に応えてきたのもM・Hさん自身です。最初の転機は、クリニックに就職したことです。約束の2年間の間に准看護師の資格を取らないかと勧められたのです。その後、病院で実習をしながらの看護学校通いは大変だったはずです。
「若かったんでしょうね。大変だとも思わなかった。未知のことを知る喜びの方が勝っていたと思います」これだけでM・Hさんのポジティブな性格がうかがえます。

准看護師というのは病院やクリニックで診療補助を行う医療従事者のこと。介護施設などでサポートを行うこともでき、その需要と活躍の幅は非常に広くなっています。M・Hさんも資格取得後、「学生時代の恩師と会ったんです。養護教諭を探していると言われ、教員免許と准看護師免許を持っている私が敵人だと勧められたんです。私自身が臨んだわけでは子供が好きだったからです」中学校養護学校での日々は、これまで以上に充実していて楽しかったといいます。

結婚、出産、次男の発症5年間の闘病生活

ご主人との出会いは、町のパン屋さん。
「私がパンを選んでいるときに、私の知り合いと一緒にお店に入ってきた男性が主人でした。もちろん面識はありませんから、知り合いと挨拶を交わして数分でお店を出てしまいました。そうしたら、後日、主人から電話がかかってきたんです。あのときパン屋にいた三田ですって」完全にご主人の一目惚れ。当時、まだ医大生でM・Hさんより2歳下でした。
「お話したら、すごく愉快な人で、数回のデートで、なんとなくこの人と結婚するんだろうなと思いましたね」ご主人が医大を卒業し、おふたりはゴールインしたのです。しかし、それはゴールインではなく波乱万丈な人生のスタートでした。
「結婚してすぐに長女を授かり、続けて長男、次男を授かり、育児に専念するため、残念ながら仕事は辞めました。そこからは大忙しの毎日でしたが、末っ子が1歳2ヶ月の時、急性白血病と診断されたのです」

小児の急性白血病は、国立がん研究センターの「がん情報サービス」HPによると、小児がんのなかで最も多い病気で、血液の中にある血液細胞には、酸素を運搬する赤血球、外部から体内に侵入した細菌やウィルスなど異物の排除などを役割とする白血球、出血を止める働きをする血小板があり、骨の中にある骨髄で作られます。白血病はこのような血液をつくる過程で異常が起こり、血球ががん化した細胞(白血病細胞)となって無制限に増殖することで発症する病気です。
厚生労働省の患者調査統計によると、1975年以降で小児急性白血病の5年以上の生存率は、75年で23%、90年で51.6%、2010年で81.6%となっています。
1975年というと丹羽靭負先生のご子息が同じ病気で亡くなられた(著者『白血病の息子が教えてくれた医者の心』に詳しく書かれています)頃。そして90年ころにM・Hさんの次男が発症。当時は2人にひとりしか助からなかった病気でした。
「約5年、入退院を繰り返しました。抗がん剤治療と副作用も繰り返しやってきて、口の中は口内炎だらけ。でも、当時の治療はとにかく命だけは助けるというものでしたから、次男がどんなに嫌がってもやるしかなかったんです。つらくて長い5年間でしたね。長女と長男もまだ小さくて、母親の愛情を求めていたのに、私はほとんど次男の病院に泊まり込みで、私の母が子供たちの面倒をみてくれていました。主人も医局に入って数年の一番忙しい時で、家族中がいっぱいいっぱいでした」

当時、様々な人がいろいろ他の治療法や、漢方などを勧めてくれたとか。そのなかにはSODや丹羽先生の診療の話もあったといいます。
「でも、当時は新しいものを素直に受け入れる状況じゃなかった。ずいぶん後になって丹羽先生のお子さんのことやSODのことを知って、丹羽先生のお気落ちがすごく理解できました。うちも主人が医者でしたから、西洋治療にお任せするしかなかった。自分の身に降りかかって初めて、患者さんのことが分かる。これが本当の医者の心ですよね」
息子さんの病院に泊まりっきりの日々。病院には家族は泊まれる設備はほとんどなく、寝心地の悪い小さな簡易ベッドだけ。食事もコンビニのお弁当で済ませるような毎日。
「私は幸い、母が子供の面倒を見てくれて、私にも食事を届けてくれて、つくづく恵まれているなと思いました。周りを見ると、泊まり込みで疲弊しているご家族がたくさんいたんです。なかには遠くからいらして、金銭的負担も大変だと。そんなときにマクドナルドハウスのことを聞いて、日本にもそういう施設があればいいのに、息子が退院できたら、そういう施設を作ってみたいと思ったんです」

マクドナルドハウスとは患者さんのご家族が安く利用できて我が家のようにくつろげる家として病院の近くにできた宿泊施設で、アメリカに誕生しました。しかし当時の日本にはまだなかったのです。(2001年に日本に誕生)なので、そんな施設を作りたいと思い続けたM・Hさん。いつも、いつも、誰かのためになりたいと願っている、そんな人でした。

SODを欲している体
飲みたいでなく飲まなければいけないSOD

懸命の介護と治療のおかげで、ご子息は奇跡的に5年後に寛解を迎えることができました。
「脳に少し障害が残ったのですが、普通に会話もでき、生活もできるようになったんです。今は息子も36歳になり、元気に東京で自立しております。
ありがたいですね。実はその次男の闘病中に、口内炎がひどく、病院の方がビタミン剤をはじめいろいろお薬をくださるのですが、どれもまったく効かなかったんです。それで、口内炎にはビタミンB群がよいと聞いていたので、化学薬品のビタミン剤ではなく、ナチュラルな成分でできているビタミンBの錠剤を飲みやすく砕いて飲ませたんです。そしたら翌日、口内炎が半分に減っていて、3日後にはすっかり治っていたのです。あの頃は医学と栄養学は結びついていなくて、医師も自然のものという発想は全くなかった時代です。でも、私は、その時に人間の身体を治す力、自己免疫力は自然のものから作られるということを実感したんです。以来、自己免疫について自分なりにいろいろ勉強を始めました」

同時にマクドナルドハウスのような施設を病院の近くに作る運動を始め、仲間を集め、募金を募り、なんと1年後にハウスを完成させたのです。その行動力と熱意には驚かされます。
そして息子さんが寛解された頃、ご主人が医局勤めから自身のクリニックを開業されたのです。それはご主人と医師やスタッフと共に始めた小さなクリニックでした。
「主人は、24時間いつも患者さんのことを考えるような人。薬剤のことに詳しく、土日はほとんど学会の行使として全国を走り回っていました。医師としてはすごく尊敬しているのですが、経営のこととなるとまるでダメ。やむなく私がクリニックの経営に携わることになって、ボランティア活動は軌道に乗っていたので運営から退きました。ひとつの目的を達成できたことが、クリニックの運営にもずいぶん役にたっていました」

この10数年が彼女にとって忙しいけれど充実した時間だったと言えるかも知れません。
「SODとの出会いもこの頃でした。もうかれこれ30年くらい前になるのかしら。クリニックを開業すると、薬や健康補助食品の会社から様々なダイレクトメールが届きます。そのなかにSODのパンフレットがあったんです。そういえば息子が入院していたときに教えていただいた事を思い出して、資料を読んでいるうちに、これだ、とひらめいたんです。というのも、父親が私が48歳の時にスキルス性胃がんで亡くなっていて、自分もがんになりやすい体質を持っていると感じていました。季節の変わり目は疲れやすく、春になるとティッシュを箱ごと持ち歩く重度の花粉症。日焼け対策をしていてもシミができやすい。おまけにアレルギーがあるから、薬を飲むとすぐに蕁麻疹が出てしまう。漢方薬でも湿疹が出ることがあったんです。こんな私は活性酸素を取り込みやすい体質で、活性炭素を除去してくれるSOD が必要な体なんだと思いました。飲んでみようではなく、飲まなければいけないと迷いはなかったです。きっと体が欲していたんでしょうね」
丹羽先生曰く〝ちょうど人間の体は自身でSOD酵素を作る力が無くなってくるのが40歳。普通の人はその頃から私の作ったSODを飲み始めれば大病しにくい体になれる〟M・HさんはそのタイミングでSODに出会ったわけです。

サプリメント

ご主人の死と震災野戦病院のような日々

それは突然やってきました。
「忘れもしない、2009年1月10日。数週間前から体調が悪いと言い始め、検査したところ、膵臓がん(※注1)が見つかったのです。余命1年と言われ、目の前が真っ暗になったのを覚えています。主人は私より丈夫で元気な人、ましてや医者だから大丈夫と思い込んでいたんでしょうね」
1年365日のほとんどを診療や学会に費やし、飲酒も年々増えていたというご主人でした。よい先生ほど患者さんの話を良く聞いてくれて、その気持ちに寄り添ってくれるといいますが、その分、自身にかかるストレスも多かったのでしょう。
「がん発覚から体にいいことはなんでもやろうと、いろいろ調べました。ゲルソン療法もやりましたし、それこそSODも進めたのですが、粉っぽいしマズイからいやだと言って飲んでくれなかった。そして友人たちに誘われると、ステーキや寿司を食べ、ゲルソン療法もギブアップ。こちらの心配をよそに、亡くなる1ケ月前まで診療をしていたんですよ」
ご主人が亡くなられたのは、がん発覚からちょうど9ケ月後の9月10日、ご自身の誕生日の日でした。
その後、悲しみも癒えぬまま、M・Hさんは病院の運営に奔走していました。
「とにかく、残された医師やスタッフ、患者さんのために、細く長く、病院を続けなければいけないという一心でした。幸いなことにみなさんに助けられて、なんとか続けていたんです」
ところが、2011年3月、東北地方を未曾有の東日本大震災が襲ったのでした。
「踏んだり蹴ったりとはこのことでした。幸いクリニックは無事でしたが、交通網や物資が届かなくて、一週間ばかり閉鎖せざるを得なかった。でも、医療機関というのはどんなことがあっても開けておかなければいけないんです。とくに、あんなことが起こったときほど、必要なのが医療機関なんです。そう信じて医師もスタッフもすごくがんばってくれました」
おそらく診察代が、保険証がどうのというよりも、家が流されて何もない、そんな人たちが駆け込んできたりして、どこの病院も野戦病院と化していたことでしょう。M・Hさんはその真っ只中をくぐり抜けてきたのでした。

健康診断はオールA評価
SODとルイボスエキスは常備薬
一家に一本モリンガオイル

あれから間もなく13年。
「大変な人生でしたよね。でも、ひとつ分かることは、なんだかんだといっても、私は入院するような病気になったことはなく、今、すごく健康でいる。これはすごいことだと思うのです」
しみじみと話され、おもむろに、ひとつのファイルを見せてくれました。それは、ここ数年のM・Hさんの健康診断のファイルでした。なんと、すべての数値が基準値内、オールA評価、異常なしなのです。

65歳以上の高齢者になると、ほとんどの人が何らかの異常や故障があり、あそこが痛い、しんどいと訴え、病院通いをしています。5割以上の人(75歳以上の後期高齢者は7割以上)が血圧や中性脂肪、コレステロールの薬を処方されているといいます。
「この結果は間違いなく30年飲み続けているSODと一昨年から飲み始めたルイボスエキスのおかげだと思っています。SODを飲み始めて最初に変わったのは花粉症でした。劇的ではなかったけれど、本当に少しずつ良くなっていくのが分かったのです。ルイボスエキスとルイボスティーはここ2年くらい飲んでいて、昨年から花粉症は劇的に良くなっています。今年の花粉症はさらにどの程度軽減されるか楽しみなんです。私は、薬に対するアレルギーがあるので、花粉症の抗アレルギー薬なども一切飲んでいない。だからSODとルイボスエキスは私の常備薬代わりなんです」
それでもコロナ禍のときは、ワクチン接種が必須な医療関係者だったので、やむなくワクチンを5回も摂取したそうです。案の定、蕁麻疹や帯状疱疹が出たそうです。

「おまけにコロナにも感染したんですよ。熱と咳が数日続いたので、免疫力を上げるためSODとルイボスエキスを大量に飲みました。普段は1日にSOD6包、ルイボスエキスが1包のところ、コロナに感染した時はSOD12包、ルイボスエキス3包を飲みました。コロナの薬や咳止めなどは一切飲んでいません。そうしたら数日で熱と咳が治まったんです。同じ頃、コロナに感染した40歳の娘は1週間以上高熱と咳が治らなかったんですよ。SODとルイボスエキス恐るべし、ですよね。私の効果を目の当たりにして以来、娘もSODとルイボスエキスを飲み始めたんです」

SODとルイボスエキスのほかにもうひとつ、最近はまっているのがモリンダオイルだとか。
「昨年から使い始めたのですが、これも素晴らしいですね。これまでスキンケアにいろいろなお高い化粧品を使ったりしていましたが、しっとり感を求めるとべたつき、潤いを求めるとすぐに乾燥するといった感じで、私の年齢に合うものがなかったんです。ところがモリンガオイルがべたつかず、乾燥も防げる優れものなの。今、私のスキンケアは化粧水とモリンガオイル一本だけ。他は何もしていないのに、くすんでいた肌が白くなった気がしますね。あとはルイボスエキスのおかげか、肌のターンオーバーが若い子みたいに28日周期くらいに早くなったんです。だからくすみが取れたのかもしれません。それと筋肉痛や傷、火傷などに塗ると、いつも間にか楽になっています。このモリンガオイルは一家に一本の価値がありますね」

ルイボスティーTX
ルイボスティーTX

健康は薬では得られない
免疫力を上げないと得られない

「私、健康管理士ですし、息子のことや自分の体質などから、食べ物の大切さは身に染みて分かっていました。食べ物から体は作られるわけで、日々の食事や生活習慣はものすごく大事なんですね。患者さんによっては薬を処方するより食事を改善する方が効果的だったりしますよね。でも、薬が一番だと思っている人も多いですね。食事や生活習慣は大事で、病を治すのは医者や薬ではなく、自身の免疫力なんです」
かといって体にいいものだけしか口にしないとか、添加物を細かくチェックするなどという極端なこだわりはしないそうです。自分にできる範囲で、手に入れば無農薬がいいけど、なければそれはそれでよし。たまの外食はみんなで楽しんで何でも食べるし、お酒もたしなむとか。
「強いてあげれば市販のソーセージなどの加工食品はなるべく食べないとか、夜遅い時間には食べないようにするくらいです。だって、おいしく食事をすることは、心と体を喜ばせることですもの。神経質にこだわる人生ってつまらない。私にはSODとルイボスエキスがあるから大丈夫」
SODやルイボスエキス、モリンガオイルなど、本当にいいものなのでみなさんにお勧めしたいけれど、難しさもありますよね、とおっしゃったM・Hさん。確かに、大変な病気を患っている人にはもしかしたらとお勧めできるけれど、健康維持のために活性酸素が云々という話はなかなかハードルが高いものです。

だからみんなが健康で気持ちよく過ごせるようなサロンを開かれたとか。サロンの隣室には定期的にピラティスも行っているそうです。ピラティスも免疫力を高める運動の代表格。さすがですね。
「私がそうであるように、SODやルイボスエキスは、大病ではなくてもちょっと健康に自信がない方にこそ飲んでいただきたいですよね。それも、やはり早ければ早いほどいいと思うんです。健康は薬では買えない。自分の免疫力を上げないと戦えない。得られないんです」
そのことをみなさんに知ってもらいたいと、今回のインタビューを受けてくださいました。
ティーサロンで温かいルイボスティーと、手作りの蒸しパン(米粉と玄米に味噌で味付けをして蒸したパン)をいただきながらのインタビュー。帰りには蒸しパンと袋いっぱいリンゴや柿、ラ・フランスもお土産にいただきました。
「福島は一年中おいしい果物がたくさんあるんですよ。みなさん是非いらしてください」
観光大使さながら。心も体もほっこりする時間でした。ありがとうございました。そしてごちそうさまでした。

※注1
膵臓がん(国立がん研究センターがん情報サービスHPより)
膵臓がんは、多くは膵管に発生し、そのほとんどは腺がんという組織型(がんの種類)です。膵臓は、がんが発生しても小さいうちは症状がでにくく、早期の発見は簡単ではありません。進行してくると、腹痛、食欲不振、腹部膨満感(おなかが張る感じ)黄疸、腰や背中の痛みなどが起こります。その他、急に糖尿病が発症することや悪化することがあり、膵臓がんが見つかるきっかけになることもあります。ただし、これらの症状は膵臓がん以外の理由でも起こることがあります。また、膵臓がんであっても起こらないことがあります。丹羽先生のお話によると、見つけにくく、分かったときには手遅れということが多いがんで、ステージⅣの5年以上生存率は20年前で1~2%、現在でも8~10%と言われています。

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